ヤツウチグラ 1490m 諏訪山 1549.4m 小倉山 1244.1
2004.8.22
曇り 単独 浜平鉱泉から入山、小倉山からは西側尾根を下る 行動時間:7H39M
L橋の袂の広見6:39→(3M)→@浜平鉱泉への入口6:42→(6M)→A営林署作業舎6:48→(1M )→B最初の分岐6:49→(4M)→C2回目の分岐6:53→(71M)→D滝ノ沢ノ頭8:04→(62M)→Eヤツウチグラ9:06→(25M)→F諏訪山9:31〜10:07→(22M)→Gヤツウチグラ帰り10:29〜37→(47M)→H湯ノ沢の頭帰り11:24〜28→(31M)→I小倉山11:59〜12:07→(70M)→J正規ルートに乗る13:17→(10M)→K浜平鉱泉登山口13:26→(※52M)→L駐車スペース14:18
※浜平鉱泉館主との50分ほどの立ち話を含む
@浜平鉱泉への道標。道標の西側に3台ほどの駐車スペースがある。でも使えないような。 | @村道からの下降点。左へ。 | 神流川に架かる浜平鉱泉への橋。 | A立派な造りの営林署の建物。 |
B最初の分岐。 | 途中の橋の様子。 | 鉱泉が湧き出しているところが点在していた。 | C二つ目の分岐道標。帰りはここに出た。 |
堰堤を越える。 | D湯ノ沢ノ頭。 | 途中にある小屋。 | ハシゴ場。脚立仕様。 |
Eヤツウチグラ。現地表記は「三笠山」 | Eヤツウチグラの石柱。 | ヤツウチグラと諏訪山の間。このような腕力で登る場所もある。 | F諏訪山山頂。 |
F諏訪山三角点。 | F諏訪山の祠。 | F諏訪山から中止の滝側にも道形が・・・。 | 帰り途中から諏訪山を振り返る。 |
Gヤツウチグラ帰り。新しい祠があった。 | Gヤツウチグラから見る北側。 | H湯ノ沢ノ頭の浜平鉱泉への下降点。 | 途中の三笠山遙拝所。 |
御岳 | I小倉山にはKUMOがかかっていた。 | I小倉山三角点。 | 小倉山からの西尾根を下って谷に入ると古い道が残っていた。 |
J 往路のC2回目の分岐道標の場所に出てきた。 | 急な斜面に建っていた小屋。 | K浜平鉱泉の所の登山口。 | L橋の袂の駐車スペースに戻る。 |
体調がいまいち、山梨方面を予定していたが完全に出そびれて朝を迎えてしまった。それでもいつも通りに朝の散歩をしてから行き先を諏訪山と決めた。ここは300名山であり楽しみに残しておいた山でもある。
登山口は浜平鉱泉のある浜平側と楢原地区からの登山道が選べるが、廃業した浜平鉱泉の現在の様子が見たく、前者の浜平側から入る事とした。南牧村桧沢沢から上野村塩ノ沢へと抜け現地入りするが、登山口となる浜平鉱泉の駐車場に停めて良いのか判らず、少し戻って橋の袂に停めた。
村道を辿り先ほどの下降点前に来る。浜平鉱泉の道標と併設されて諏訪山の文字も見える。その矢印の方へ民家の脇から下って行く。すると川を前にして上流につり橋、下流に金属の橋が見えた。浜平温泉は何処なのかが判らなく少し迷う。何も看板が無いのである。ペパーミントグリーンに塗られた橋で右岸へ渡る。渡りきると一軒の家があるのだが、どうもこの一軒家が浜平鉱泉のようであった。その脇から登山道は続いている。右の方へ行くと小さな社殿があった。社殿へ続く道の手前から下降してゆく道があり、その先に登山口の標識がある。昔そこに橋があったらしく、今は橋脚のみ残されていた。戻り登山道を進む。すぐに廃屋が見えた。普通の家にしては大きすぎる。下山してから聞いたところによると、これは営林署の作業舎だったらしい。現存するもので半分壊したらしく、そのまま残っていれば当時はかなり大きな建物であった。どんどん進むと最初の分岐がある。右へ行く道と分かれ左に進む。沢の中を進む道は蛇行しながら木の橋などが現れてくる。沢を良く見ていると水の色が違うところがある。どうもそこから鉱泉が湧き出しているのである。浜平の湯はとても効能があることを聞いていたので、すぐに手を突っ込んでみるが、予想に反してしっかり冷たい。少し温いくらいの温度を思っていたのだった。これでは浜平鉱泉は燃料費がかかってしまい、廃業となった背景も判る。
第2の分岐は右に進む。この先に大きな堰堤があり、昔の道は堰堤の手前を横切っている。この辺りから稜線のコルが見えているのだが、なかなか辿り着かない。いつもそうであるが見えている所ほど遠いのである。緩やかな道であり、当初は1時間ほどで着くかと思い込んでいたが、結局1.5時間ほどかかり湯ノ沢ノ頭に到着。ここで登山道が楢原へ行く道と諏訪山へ行く道とが左右に分岐する。とりあえず高い方を先にと右に進む。なんとなく小枝が登山道を塞いでいる。いつの風のせいだろうか。
作業小屋跡通過。トタンが外れており、避難用には使えるが実際使うには勇気がいる。中には作道用なのか鶴嘴が2つ置いてあった。この先はなんとなく西上州らしい山稜になってくる。梯子が設置してあるのだが、ここは市販のアルミ梯子である。それの支点が揺らいでおりやや心許無い。この先の鎖も錆びきっており、今にも朽ち果てそうな状態のまま木に繋がれている。ここら辺は先ほどの新しいハシゴに対して好対照の管理状態であった。この辺りから少し急登が続く。
空が開けたら三笠山(ヤツウチグラ)の山頂であった。祠があり、「三笠山」と書かれた標識があった。向かう諏訪山は目の前にある。急斜面に九十九折に付けられた道を降りてゆく。ロープを垂らした岩場の危険箇所もある。ここをちょっとだけ腕力で登り、その先が最後の登り。と言ってもたいしたことは無く、諏訪山山頂到着。通常なら8掛けくらいなのだが、どうしたことかエアリアのコースタイムをそのままである。やはり調子が上がらないのか。それとも登山道が状態が悪いのか・・・。ザックを下ろし、北西にあるピークに向かう。最初のピークは諏訪山と同じ標高で、その先のピークは6mほど低かった。驚いた事にここから中止の滝へ向かう道が降りていた。木に「中止→」と書いてあり、はっきりと切り開きがあった。ここまで調査し再び諏訪山の公式な山頂に戻る。珍しく持ち上げた三ツ矢サイダーを飲みながらパンを食べる。なんとものんびり調子である。夏休みボケなのか。本来の登山スタイルなのか。ゆっくりと時間が過ぎてゆく。それでも先の予定があるので、あまりのんびりモードでは・・・。。来た道を戻る。
途中の尾根の合わさる所は注意が必要となる。尾根が何処も踏まれているので間違いやすいのである。三笠山再び。祠を開けてみた。開ける事が良いのか悪い事なのかも判らずまま行動してしまった。展望は諏訪山よりここの方が遥かに良い。諏訪山は展望が全く無いのであった。天丸山の方向もしっかり見え、諏訪山越しに御座山も見ることが出来る。少し休憩し下降開始。斜度がきつく、足が痛い。革靴を新調したのだが、まだその革が足に馴染んでいないのであった。この痛さでは革靴離れになりそうで恐い。
湯ノ沢の頭到着。さてこの先どのルートをとるかである。意外や時間がかかっており、下山路を地図を見ながら悩む。下した決断は、とりあえず小倉山に行く事。次はそこで決断する事にした。道は緩やかで歩きやすい。すぐに遥拝所と言われる場所に来る。流石にここは薄暗く閉まっているドアを開ける気にならなかった。この先石碑があり、武尊山、御岳などと書かれたものがあった。登山道を途中から離れ稜線を歩いた。最初のピークで山頂かと思った所は違い、その次ぎのピークが小倉山の山頂だった。そこには久しぶりに見るkumoがかかっていた。トランシーバーを握ると谷川岳に居る方とつながり、話の中で肩の小屋の宿泊料金を聞いた。一泊二食で6800円だそうだ。まーまー相場だろう。少し長い交信のあと下山。
下山は登山道を離れて小倉山の尾根伝い(北西)に進む事とした。最初の肩のようなピークで主尾根はそのままの方位で進むのだが、境界線の赤い標柱がここから左側に下りており、一か八かで行って見る。地図を見るとこのままの方位で浜平地区に出るようである。尾根の踏まれた様子からもルート選定は正しいと判断した。しかし途中までマーキングが続いたが、尾根を間違えたのか途中でそれらは無くなった。尾根では違うのかと思い途中で沢に降りたら、行く先がナメ滝で二進も三進も行かず再び登り返す。すると再び刃物痕が見え、そこを伝いながら植林地の中を行く。途中から再び赤いペンキマークが現れ一安心。沢に降りたら木道なども見え、人の手が加わったことを確認し、そのまま踏み跡を辿り沢を下ってゆく。
行き着いた先は、第2分岐の所だった。登山道は往路で右に行く所を左側から合流した。ここまで来ればもう安心。闊歩しながら進む。途中で往路では気がつかなかった作業小屋が登山道上に見えた。それはなんとも危険な斜面に作られていた。しかし小屋が現存していると言う事は、見えているほどに危険な場所では無いと言う事になる。橋を渡り登山口到着。ちょうど村道に出た所で地元の人が居り長らく会話をする。今降りてきた尾根を使う人はほとんど居ないとの事。驚いていたようであった。しばらくすると浜平温泉の当主が来て、入れ替わりで話が始まる。今ほどまで話していた方は「やまびこ荘」のオーナーとの事だった。浜平温泉は明治19年の開設で鬼石の八塩温泉と同じ時期に申請したが、当時八塩の方は成分の関係で温泉認可が下りなかったそうである。当主は90歳であるが、なかなか記憶力がすばらしい。すらすらと昔の事が語られてゆく。海軍出身の黒沢村長を筆頭に、上野村の方々は元来頭脳明晰なのかも知れない。登山道途中にあった廃屋が国の作業所だと教えてもらったり、登山道が堰堤までトロッコ道であったり、鉱物採掘のため江戸時代には幾つもの坑道があった事も聞かされた。まさに生き字引である。時間を惜しむことなく聞き出した。廃業したのが3年前、家の改修に際して保健所のいろんな規定が面倒で存続を辞めたらしい。もったいない事である。役所が柔軟な対応をしていれば、鉱泉として存続していたのに・・・。長老は言っていた。東京電力の発電所開発に際してのなんとか金と言うので十分暮らしていけるそうだ。この辺りも廃業した背景にあるようであった。
長老との話も終わり、車に着いて時計を見ると、どうも50分ほど立ち話をしていた。でもとても有意義な話に大満足。これで上信地域の300名山は終わった。
軌跡を取っていなかった頃であり、小倉山からの下降路は記憶が呼び起こせませんでした。よって途中で切れています。