スゲノ沢ノ頭 1922m
大蛇倉山
1962m
高天原山 1978.8m
2022.11.5(土)
晴れ 単独 日航機の事故現場を周回 行動時間:4H4M
@駐車場5:56→(23M)→A昇魂之碑6:19→(44M)→B上信国境下降点(1880m)7:03→(27M)→C大蛇倉山7:30〜35→(23M)→D1880m下降点西7:58→(39M)→E高天原山8:37〜45→(20M)→F舟窪9:05〜09 →(6M)→G水場9:15→(18M)→HU字溝9:33〜35 →(25M)→I駐車場10:00
@上側駐車場は7台。下側はバス用。 | 登山道を縫うようにモノレールが設置されている。 | 二カ所目の水場。一か所目より太い流れ。 | 案内図。番地がフラれた場所が「発見」場所のよう。 |
立派な山小屋があり、日よけされた休憩場所も。 | 途中途中に、沢水が引かれ蛇口もある。 | A昇魂之碑。一帯は紅葉が見事。 | 遺品埋設場所上の丸太小屋。内部には、故人の写真などがあった。 |
1600m付近にある道標。ここから尾根道が「登山」対象の場所に変わる感じ。 | 少し上の道標。経路の道標はこれらのみ。 | アセビの中に道形。踏み跡が薄い場所もある。 | クレモナのタイガーロープが流されている。このロープの下側がやや不明瞭。 |
1850m付近。上信国境までもう少し。急登。 | B上信国境1880mの下降点分岐。 | B事故後に、登山道を作道したことがこの道標で判った。 | 外気温はマイナス4℃。霧氷が綺麗。 |
スゲノ沢ノ頭に見える造花。ここからの東尾根にマーキングが降りて行っていた。 | スゲノ沢ノ頭北側。倒木が増えだす。 | 夥しい倒木の場所。 | 1890m付近 |
1910m付近。急登場所の道形は薄い。 | C大蛇倉山 | C東側。一帯は霧氷の景色。 | C北から |
D1880m(下降点)の西側に道形が在る。復路は頂部を伝わず。 | 途中の露岩から高天原山。 | ロープ場を下から振り返る。 | 苔むしたルートで心地いい。1850m付近。 |
1910m付近。金色の草原と霧氷。 | 1925m付近。高天原山直下。 | E高天原山。ここにも造花あり。 | E標識 |
E彫りが浅い三角点。 | Eヤキソバパンと | E川上村側の立木が伐採され南西側が開けている。 | E東から見る山頂。 |
1935m付近。見通しのいい快適尾根。 | F舟窪。ここにも造花あり。 | F道標 | F北尾根はマーキングベタ打ち。 |
舟窪を振り返る。 | G表示まである水場があった。 | Gちょろちょろで使える水場ではなかった。 | 1781高点通過 |
HU字溝。尾根に機体が当たった筋が残る。 | H標識 | Hケルンに機体の残骸が集められている。 | 1530m付近。道形が薄い場所が多い。 |
1480m付近。マーキングが無いとルートの場所が判らない。マーキングは続く。 | 1450m付近。谷の落ち口上。 | 降りてきた谷地形を振り返る。道が在るように見えるだろうか。 | スゲノ沢右岸に降り立つ。マーキングは右岸に続く。ただ、進み辛く左岸に移ってしまう。 |
登山道に戻る。 | 時計回りの場合は、この場所から右岸を進む。道形はほぼ無い。 | I駐車場に戻る。満車。見ての通り狭い駐車場。 | I下側の駐車場にはマイクロバスが2台見られた。今季は11月14日より来春まで冬季封鎖に入る。 |
1985年8月12日、京間6畳の狭いアパートで富士通のFM7と格闘していた。ディスプレイに浮かび上がる文字は、まだ緑色をしていたと記憶する。そこに、向かいのアパートに住む仲間がやってきて、「〇〇の田舎の方、たいへんなことになってるろ」と掛川弁で伝えてくれた。すぐにテレビを点けると、確かにすごいことが起こっていた。御巣鷹の尾根に日航機が墜落した・・・。
「御巣鷹の尾根」とは通称とのこと。実際の御巣鷹山の尾根は、1.7kmほど北にある。途中には、北から大蛇倉沢、その南にスゲノ沢ノ頭から派生する東尾根があり、その南に事故現場のスゲノ沢がある。場所を特定したいために急いで呼び名をつけたのだろう。後から修正すれば出来たと思うが、されずに推移してしまったよう。地形図上で、付近にある読める山名の場所が御巣鷹山だった。
御巣鷹山には2005年の大みそかに登った。事故から20年経っていたが、なにか「御巣鷹」の響きに、通常登山とは別の、畏敬と言うか慎んだ気持ちで登っていた。事故に遭った方々が眠る場所の近くで、レジャーで山登りを楽しむのは不謹慎ではないかと・・・。この気持ちが根っこにあるので、「御巣鷹山の尾根」のスゲノ沢の事故現場にも足を運んでいなかった。でも、山と高原地図の西上州図を見ると、登山道が記載され上信国境の山が紹介されていた。監修した打田さんは、この様な場所をレジャーの場所として紹介し、すごい心臓の持ち主だと思っていた。
以降ずっと気になっていた場所。当然、昇魂之碑の場所も一度慰霊してみたいと思いつつ居た。そして行動に移そうとしたのが、今年の8月。お盆の慰霊登山のニュースを聞いて、同じように登れるだろうと出向いたが、お盆後にすぐに崩落工事の修繕期間に入り不通になってしまっていた。今年はダメかと諦めていたが、それが10月に開通していたと最近知り、そしてまた11月14日から冬季の不通期間に入ると言うので、慌てて実行に移す。
上野村へは、湯ノ沢トンネルに潜ればすぐになったものの、上野ダムからスゲノ沢への林道は長く感じられた。修理完了しての開通だが、頭大の落石が路上に在ったり、荒れやすい林道で、もし日航のこの件が無ければ廃道になっていただろう場所に思えた。旧の登山口には大きな休憩舎とトイレ舎が見える。ここからのルートも19号台風で荒れてしまったよう。すれ違い余地が乏しい林道をヘッドライトを頼りに進んで行くと、駐車場らしき場所に到着。そこは思っていたより狭い印象だった。最初下段に停め外に出る。すると長い白線が見えた。バス用の駐車場だった。上段は7台分白線が引かれており、停車位置に対しての通路は狭く自由度が無かった。夜明けを待つ。
5:56行動開始。登山道入り口には沢山の杖が立てられていた。これも日航が用意したものだろう。入山者カウンター横の温度計は0℃を示していた。モノレールまであり、荷揚げ用もしくは足が不自由な人の為だろ。37年も経過すれば、関係者も老齢になっているだろう。水場は最初より二つ目の場所の方が太い流れだった。お地蔵や供え物や、慰霊の場所らしいそれらが並ぶ。いつもは少し先行する迷犬も、今日は脚側をし神妙に歩いているようだった。何かを感じているのか、人工物が多いのでいつもと調子が違うようだった。鹿がスゲノ沢の上流で大音量で警戒音を出した。この時ほど大きな音を聞いたことが無い迷犬は、思わず立ち止まって音のする上流を向いていた。
歩いてゆくと、最初のお墓に出会う。お参りをしながら先に進んで行く。いくつかの墓石を経て案内図の場所となる。番地がフラれた場所は、発見場所に対しての番地なのだろうと読めた。機体と共にご遺体が横たわっていた斜面だった。今でこそ墓地のように綺麗に整備されているが、事故後のここは大変な場所だったろうと判る。大ぶりな山小屋も3棟見え、夏用だろうブルーシートを張った日よけのある休憩場所も作られていた。道の途中にはカランが設置されていたりし、この山中にして整備が行き届いた墓地に見えた。
昇魂之碑の前に立つ。周囲は奇麗な紅葉で美しい。後から植栽された木々も多く、この秋も考慮した樹木選びのようであった。鐘を鳴らすと木霊が谷あいに響いてゆく。この場所の温度計はマイナス1℃を示していた。先に進むと、遺品埋葬場所があり、すぐ上の丸太小屋には沢山の千羽鶴がかかり、中には写真なども見られ、勇気のない私は内部に入ることが出来なかった。手前には幼児の写真が見えていた。
9D−1番地に、お二人のお墓が見られた。一方の方のお名前は登山を趣味にしていそうなお名前で、こんな方も亡くなってしまっているのだと判る。ここから僅かに登ると、「登山口」表示があり、標高は1600m付近。その先にも三国山まで書かれた標識が在り、西上州図と同じようにコースタイムが書かれていた。尾根の南西側に「8A」の番地表示が見え、ここが番地がフラれた最上部であった。
墜落現場を背にした格好で、馬酔木の茂る尾根を登って行く。道形はハッキリしているが、進む先には薄い場所もありマーキングが導いている場所もあった。その先はクレモナ紐のタイガーロープが道の場所を示していた。国境直下になると勾配が強くなり、地形図に読めるより急斜面に思えた。
上信国境の1880mの下降点分岐到達。そこには「慰霊登山道」と書かれた分岐道標があり、これを目の当たりにして、事故後に敢えて登山道として作道・管理しだした事が判った。沢山の方が眠る場所であり、”レジャーの場所に使うな”と言う考えではなく、慰霊の場所ではあるが”ここを登山に使って欲しい”意図が感じられた。ここでの外気温はマイナス4℃で素手で行動するにはかなり寒く感じられた。周囲の木々には霧氷が着き、陽が上がった後でもまだ融けずに白く固着していた。
北に進んで行く。1922高点峰がスゲノ沢ノ頭で、山名板こそないが、なぜか造花が縛られていた。麓側の色々をここまで持ち上げている印象であった。私は造花が苦手であり、ちょっとと言うかだいぶ違和感を抱いてしまった。東側の小尾根にピンクのマーキングが降りて行っていた。捜索時に歩かれた尾根だろう。さらに北進してゆくが、スゲノ沢ノ頭北側から倒木が多くなり、大きく左右に振りながら進んで行く。大蛇倉山が近づくと、下草の植生が増え、冬枯れで金色になっており心地いい。そして直下は急峻で、道形が薄かった。
大蛇倉山登頂。北側にシャクナゲが蔓延り、御巣鷹山を望もうと思って来たが叶わなかった。もう少し進めば舟留であるが、南進が控えているために今日はここまで。相変わらず外気温はマイナス4℃であった。相木ダム側は山頂からは見えなかった。少し西に移動したら見えたのかもしれない。南進を始める。
まだ霧氷は落ちださず、周囲景色はそれが為にさながら雪景色であった。スゲノ沢ノ頭を過ぎると、国境ラインの西側に道形があり伝って行く。獣道のようでもあり、昔の杣道のようでもあり、これを伝うと、下降点の場所を通らず山腹のまま南に抜け、さらに西側山腹に続いていた。分岐点より3分ほど南に進むと、国境ラインに乗って初めて開けた場所があり、露岩の上から高天原山側を望むことが出来た。露岩が出てきたと言う事は・・・となるが、この展望地から5分程の場所に岩場がありロープが垂らしてあった。犬にはやや通過しにくい場所であるが、迷犬は上手に降りてきていた。西側にロープがあるが、東の土の乗った斜面も使えるようだった。
1840m付近からは、苔むした場所を踏みながら進むような場所となり、やや道形が不明用になる。ここはマーキングがしばらく導いてくれていた。倒木もあり避けながら高度を上げて行く。1900m付近からは、また金色の下草景色で、その向こう側に霧氷があり、霧氷を通過してきた日差しが荘厳であった。高天原山の北側斜面も急峻で倒木混じり、先を行く迷犬に何度も待ってもらい足を揃えていた。
高天原山登頂。17年ぶりに立つ。ここにも造花が在った。南西側が開けているが、信州側の立ち木を伐採して見えるようにしてあった。その方向に川上村の高原野菜畑が見えていた。大蛇倉山に在った仕様の標識と、すかいさん関の標識が掲げられていた。本日最高峰であり、ここでヤキソバパンを迷犬と分かち合う。足許には三角点が埋まっているが、材質のせいか加工のせいか、彫りが浅くて等級が良く判らなかった。大きさ的には三等だろう。さて、この後の進路だが、山と高原地図からは大蛇倉山へのピストン、高天原山へのピストンで描かれている。しかし調べると好事家が舟窪まで進んでからスゲノ沢に降りるルートを辿っている。途中には「U字溝」なる、機体が尾根に当たった場所があるらしい。とても気になるルートであった。
シナノゴールドを齧りながら東進に入る。1960mの肩からは、南の1729高点のある尾根側に引き込まれそうだが、方角を確認しつつ東進を貫く。5尺ほどの高さの枯れた野草がニョキニョキと立っていて、けっこうに進路を邪魔していた。道形は薄く、下草は無いのでどこでも歩ける尾根だった。倒木はそれなりにあり、避けるのではなく跨いでの通過が多かった。
舟窪到着。山名の標識が在るかと思ったが無かった。代わりにではないが、すごい数のマーキングがあった。気持ち悪いほどにあり、今日の下降路である北尾根(群馬側)にも、三国山側にも降りて行っていた。分岐道標はあり、U字溝と三国山を指し示していた。大蛇倉山にも在った大きなオレンジ色の布があり、何か書いてあるのが見えた。先月の10月23日に集団登山した記録が読めた。7名の名前が記されていた。この時は、賑やかに楽しそうなパーティーが登ったんだと思っていた。ここにも造花があった。
北に下りだす。真新しいピンクのリボンが続いており乱打状態。あまりにも淫らなので回収してしまおうかとさえ思った。急下降を終えるとなだらか斜面が続く。5分ほど降りた場所には「水場」と掲示され、ちょろちょろとした流れが出ていた。最初はヌタ場に見えたが湧出地であった。コップまで置いてあり、ここを見て周回路を作道したとハッキリ判った。ただここの流れは細すぎて酌めるほどではなかった。
淫らなピンク色に導かれ降りて行く。踏み跡は薄く、1781高点付近は細尾根になるので頂部に道が良く判った。以降では倒木帯もあり、何処に作道したのか判らない場所もあり、この辺りになると、在ってありがたいリボンであった。進路左側の木々の間から見えるスゲノ沢の頭は、既に見上げる位置になっていた。今回はCCWで周回しているが、CWで周った場合どうだろうと振り返るが、マーキングがあるものの広い尾根なのでバリエーションな雰囲気が強かった。
U字溝の場所に着く。尾根を切り通す感じに溝があり、胴体が擦ったという場所が見られた。ケルンもあり、石に混じり機体部品が集められていた。見つけてはここに集めているようであった。そしてこの場所にもオレンジ色の布が縛られていた。書き込みを見てハッと思った。「JALO有志一同」とある。OはOBなのかとも思ったが、日航の関係者がこうやって頻繁に登って、やもすると廃道化してしまいそうな場所を維持していることが判った。真新しいリボンも合点がいき、外さないで良かったと思えた。この先、尾根を右に行くと1582高点の尾根に入るが、そのまま北進し、途中でカクッと西進に変わる。全てはマーキングが導き、無かったら判らないような場所だった。ここからの下降は、勾配が強く地表が流れやすいのだろう、道形は薄く、全く無いような場所もあった。かなり高度を落としてから振り返るのだが、登りに使いたくないような勾配と、ルートが在るにしては不明瞭な場所だった。
1480m付近は見通しのいい谷地形だったが、その先1450m付近がガクンとした落ち口のようになっており、その上部と下部が、上手に危険個所を通過するように作道してあった。この辺りになるとリボン間隔は広く、谷を降りきり振り返ると、ほとんど見えずルートが在るようには見えなかった。スゲノ沢右岸に降り立つ。事故現場側からは声が聞こえてきていた。入山者が居るようだった。渡渉するのかと思ったが、マーキングは右岸に続いていた。ただ右岸は歩き辛く、途中で左岸に渡って登山道に乗ってしまった。
右岸のマーキングを対岸から見ながら進むと、仮設橋の所がCWする場合の入山点と判った。その場所から見たが、踏み跡もなく不明瞭だった。駐車場に戻ると、スペースは満車だった。下段にはマイクロバスが2台停まっていた。閉山前の墓参だったのだろう。ナンバーは遠く「福山」のモノもあり、県外ナンバーばかりが並んでいた。
振り返る。登る前と登った後で、ここに対する意識が大きく変わった。想像と配慮から、遊びで行ってはいけない場所と思っていたが、現地はそうではなく登山者を歓迎している場所に思えた。事故を風化させないためにも、歩いて、見て、知ってもらいたいのだろう。あとは場所が場所だけに自然に戻るスピードも速い場所、山道同様にどんどん歩かれた方が維持できるだろう。寂れた場所になるよりは、人が訪れ賑やかになる方がいいって事かもしれない。西上州図の記載に納得が出来た。