小梨山 709.7m 摩利支天(裡山) 699.7m
2020.4.11(土)
晴れ 単独 甘楽町側で時計回りに周回 行動時間:4H38M
@採石場前5:15→(49M)→A小梨峠6:04〜05→(27M)→B小梨山6:32〜38→(19M)→C小梨峠再び6:57→(56M)→D鳥屋峠7:53→(9M)→E亀谷峠8:02→(23M)→F摩利支天8:25〜29→(40M)→G530峰(東屋)9:09〜10→(17M)→H山の神(峠)9:27→(9M)→I上鳥屋地区に降り立つ9:36→(17M)→J採石場跡9:53
@東谷地区の採石場跡地。敷地内に駐車していいのかどうかは不明。 | @砕石場跡前の石仏。 | 県道71号からの小梨峠への分岐 | 3.1km |
地区の配水所 | 「終点」標柱 | 押し出しが舗装林道を埋めている。 | 450mからは水線沿いの道形を選ぶ。先の方で薮化しておりやや抜け辛い。 |
切り株が残り伐採斜面であるが、針葉樹は見えず広葉樹ばかり。 | 530mで林道に戻る。 | 崩落地 | 上側の崩落地。舗装の下側の地形が抜けている。 |
A小梨峠 | A小梨峠解説 | A石仏 | 610m付近。この先に岩場が待っている。 |
ロープを垂らしてある岩場。人間だけなら何も問題なく通過できる。 | 岩場に対する巻き道が北側に存在した。 | 640m付近ごぼう登り | 小梨山手前の屈曲峰。北側の展望はいい。 |
藤蔓の蔓延る場所 | B小梨山は山頂らしい山頂。 | B布標識 | BG標 |
Bヤキソバパンと | B北側の展望 | B南側の展望。御荷鉾山塊。 | 帰路岩場にチャレンジしたが、最後2m程が迷犬には通過できなかった。 |
北側の巻き道が尾根と合流した場所。杉の倒木(枯れていない)がある場所。 | 巻き道の入口を西側から見ている。よく見れば確かに道形が在る。 | C小梨峠再び | C小梨峠の祠 |
C祠のすぐ上に、くくり罠が仕掛けてあった。 | 638高点峰 | たおやかな尾根が続く。 | 680m地点で甘楽町との界に乗り上げる。ここにはマーキング多数。 |
680m峰からの西側は鞍部まで降りると踏み跡が出てくる。 | D鳥屋峠 | 鳥屋峠と亀谷峠の中間点付近にある道しるべ。「新屋天引」 | 「小幡富岡」 |
E亀谷峠。道形が尾根に乗った場所。亀谷峠の図面位置よりやや西側。 | 690m峰 | 690m峰には×と+ | 690m峰から見る西側。地形図表記の亀穴峠がこの辺り。 |
西から見る摩利支天 | 鳥屋峠再び | 付近にオレンジの蛍光色の樹皮が見られる。 | 帰路は、680m峰の西側鞍部から北側へ進む道形を選ぶ。 |
摩利支天への最後 | F摩利支天登頂 | F三等点 | F点名は記されている。 |
F石碑があるが裏を向いている。 | F西側に「摩利支天」と彫られている。「天」の字は未確認。 | 摩利支天からの北尾根は、長い距離ムラサキヤシオが楽しめる。 | 535高点峰南の鞍部は尾根が半分(西側に)崩落している。 |
535高点峰は城址のような場所。 | 535高点の北西で西側に散策路が現れる。 | 階段路を進むと、先の方は道形がかなり荒れている。 | G530m峰の東屋 |
G展望写真図 | 450m付近に岩場がある。巻き終えて見上げる。 | H390mで峠に出合う。 | H峠の西(甘楽町)側に林道が走っている。 |
H山の神があり、祠は4つ並ぶ。 | 谷の中には石垣が見られる。 | 71号を見下ろしながら山道を伝う。 | I上鳥屋地区に出る。アンテナ施設の場所。 |
I出た場所から振り返る。 | 東谷川ダムの散策路を伝ってゆく。 | J採石場跡前に戻る。 |
鮎川と雄川の分水嶺尾根を二週続けて歩いてきた。今回はその最終章と位置づけ、東側を歩いてみることにした。亀穴峠と小梨峠にも興味を抱き、それら峠の西側に在る、小梨山と摩利支天が山としての目的地であった。
今回も鮎川沿いの71号からアプローチすれば奇麗な周回路が描ける。でもしかし車道歩きが四分の一ほど出来てしまう。危険リスクを減らす目的と、静かな場所をより多く歩きたい目的で、前週同様に北麓で周回をすることとした。東谷地区から小梨峠に上がり、小梨山を踏んだら亀穴峠まで西進し、下山は摩利支天から北に続く尾根を下る計画とした。
東谷川ダムには一度訪れているが、そこより先は進んだことは無かった。その先にある大判地集落は、8割がたの家が崩れ形を変え、そんな中に住まいしているお宅が僅かにある感じであった。住まいしている人は住めば都で慣れているのだろうけど、外部からここを訪れると怖い印象の地区であった。地区から先の林道は工事中で進め無くなっていた。ここまで確認して小梨峠への分岐点まで戻る。周囲には駐車余地がなく、西側の採石場跡が近場で唯一。ただし私有地だろうから中に入れてはご法度と、その前の路肩余地に停めた。
5:15採石場入り口の二体の石像をお参りしてから出発する。そして小梨峠まで3.1kmと刻まれた道標に従い林道へと入って行く。小橋橋を渡ってから先は、意外にもしばらくは荒れた場所は見られなかった。配水所が左に見え、そこから13分ほど進むと右側に山火事注意の標柱が立ち、その脇に林道延長終点の標柱も見られる。旧来から往来のある峠道に対し、「終点」と書かれているのが良く理解できなかった。
「終点」標柱から2分ほど進むと、枝道が右に分かれており、その先に沢沿いに進む道は行き止まりに見えるほどに押し出しで埋まっていた。進めないかと見えたが、何とか沢側を通過でき抜けられた。抜けた先はこれまで通りのコンクリート舗装の道が続いていた。標高450mでは、旧道が新道と交差している。そして実線路が490mまで描かれている沢筋へと入って行ってみる。
南に上がって行く道形は棘が多くなったり、ツタ類が進路を塞いでいたりするが、そのまま道形は500mより上まで進んでいた。東側斜面は切り株がたくさん目立つ場所であるが、おかしなことに広葉樹が多く、所々にのみ針葉樹が見える。通常は伐採した後に針葉樹の幼木を植えるはず。食害で幼木が食べられてしまったのだろうと答えを出した。道形は途中で西に向かい、530mで下からの道形に乗った。棘帯を通ったので分けつつ進む中で手が血だらけになってしまった。自分の選んだ道なのでしょうがない・・・。
小梨峠の北側の林道は、大きく崩落している場所があり、その上側の舗装路の場所でも舗装下の地面が抜け落ちていた。上側の崩落個所のみトラロープで養生されているのが見えた。養生の仕方が古いので、上側は19号台風以前の崩落で、下側が19号での崩落なのだろう。崩落個所に甘楽町や南牧村に見るような災害標柱が無い。治すつもりはしばらくないことが伺えた。
小梨峠到着。林道幅が通っているので広い場所で、その東側に石仏と解説版が立ち、西側に祠が安置されていた。小梨山に向かうべく東側へと登って行く。590mの尾根の肩に倒木が折り重なり、犬連れでは尾根上を進めそうになく、北西斜面を15mほど進んで尾根に戻った。
640m峰の東側は岩場が待っており、そこにはロープが2本垂れていた。一人なら難なく通過する場所であるが、犬連れには困った。小梨山は諦めねばならないかと思えた。最初南斜面に降りてズレてみるが、落ち葉の急斜面で簡単ではなかった。次に北斜面に降りてみる。630m辺りをズレようとしたが、ここも危険すぎる。もう手が無いのかと周囲を見る中で、さらに下を見ると、一筋の道形が見えた。下って行くと、何のことは無い北側に巻き道が存在したのだった。何処から分岐していたのだろうか、枝分かれする場所に全く気が付かなかった。
巻き道と尾根道の東側合流点には、針葉樹にピンクのテープが巻かれていた。690m峰の屈曲点までゴボウ登りのような急登で、その先は藤のツタの蔓延る場所があり、乗り越えたり潜るようにしてそこを抜けると形のいい山頂らしい山頂に到達した。
小梨山登頂。二等点であるが四つの角は無残にも割られていた。東側には、まだ新しいと思えるサラシのような布に山名が記されていた。布の標識はKUMO氏の友禅の帯で見るが、ここまで大きな布標識は初めて出会うものかもしれない。西側には、リョウブかナツツバキか、幹に直接山名がマジックで書かれていた。あと、G標の残骸と五円リボンも見られ、とても賑やかしい山頂になっていた。南を見下ろすと、直ぐ眼下に鹿島地区が見えていた。山頂から南には尾根上に境界標柱が降りていた。板野地区からのアプローチの場合は、520m付近から南尾根に取り付いてもいいようだ。
帰路は岩場に果敢にチャレンジしてみる。核心部は2mくらいの岩肌の場所、ここを32kgの迷犬を持上げてやろうと考えたが、片手のみでは総量100kg弱を支えるのは困難で、1回のチャレンジで諦め下に降りる。往路に辿った巻き道を伝い西側に出る。西からの巻き道の入り口は不明瞭で、杉の生きたままの倒木の10mほど先から分かれていた。
小梨峠に戻り、次は西進してゆく。祠に挨拶してから、左に見つつ尾根を登って行く。左面には明治三十八年と刻まれていた。このすぐ上側でドキッとさせられた。犬連れなので特に。標識をつけないで地面に括り罠が仕掛けてあった。これは違法。以降ほかにも仕掛けてあるんじゃないかと神経を使ったが、見えたのはそれだけであった。尾根上の獣道の上に仕掛けてあるので、罠を知らない人は引っかかってしまうかもしれない。そして外し方を心得ていないと、罠にかかったままで動けず上毛新聞に載ってしまう事も・・・。
638高点を越え、西進は下草のほとんどない明るい尾根上を進むことができる。671高点峰にはマーキングが二つ見られた。快適も快適、跳ねるように進んで行く迷犬の後ろ姿からもそのことが伺えた。甘楽町に突きあがった場所には、境界標柱が埋まり、ここには無数のマーキングが結ばれていた。南進し680m峰から西進になるのだが、このピークからの西側は踏み跡らしきものが無くなり、660m付近から北側斜面からの道形が尾根に合流した。680m峰は端折って通過するようだった。
640mの鳥屋峠は峠らしい掘れた場所で、ここからは藤岡側の道形を伝って進む。尾根上に踏み跡はなく、藤岡側の道形を進めば破線路に合流するだろうと予想を立てた。進んで行くと、道しるべの石塔が見られ、伝ってきた側を新屋天引道、西進してゆく側を小幡富岡道と彫られていた。どちらに進んでも新屋天引側に進んでしまうような気もするが、地形図表記に無い昔道が以前は在ったのだろう。
西北西にハッキリとした道形が直線的に続き、尾根に乗り上げた場所が亀穴峠と思っていたが、その場所は全く峠らしくない場所であった。G標だろうかここには打ち付けられた青い荷紐が見られる。地形図を見ると、甘楽町側の破線路は690峰を経て北側に降りて行っている。690峰に登ってみたが、道形らしき跡は判らなかった。再び鳥屋峠を跨いで東側に戻って行く。
680m峰の帰路の通過は、その西側手前からの道形を北東へと伝ってみる。途中からあやふやになり、どう道形は獣道のようであった。尾根に乗った場所から振り返っても、道形の存在は全く判らないほどの場所だった。摩利支天へと登って行く。
摩利支天登頂。1座目の小梨山同様に山頂らしい山頂であった。ただし展望は無い。西側に石碑が立ち、背を向けているので表面は西側にあり、そこには「摩利支天」と刻まれていた。呼ばれる根拠はこれかと判った。三等点が中央に鎮座し、石碑の前にはなぜか滑車が残置されていた。そして今年設置の「裡山」と書かれた合板が置かれていた。この場所ではこの漢字が読めずに困ったが、降りてから検索すると「うら」と読むことが判った。そして三角点の点名であることも知る。あと、西側の立ち木にはフジオカTK氏の荷紐も見られた。
摩利支天からの下りは、わずかな角度の違いで甘楽町側に降りてしまうので、慎重に北東に進む尾根を選びたい。伝って気づかされたが、ここもムラサキヤシオが美しい場所で、伝う尾根に広範囲で生えていた。535高点峰の南の500mの鞍部から西側は地滑りが起きて大きく抉られていた。これも19号の影響だろう。尾根上が西側に滑っており珍しい光景でもあった。
535高点峰に乗ると、そこは城址だったのではないかと思えるような地形で、山頂も平なら、西側の一段下がった場所にも平らな地形が存在した。そして535高点の僅か北側に進むと、その西側に尾根に沿うように散策路が出てきた。林道でないことは、道の両側に施工された丸太の土留めで理解でき、歩道整備された場所と言うことを強く示していた。それに伝ってゆくと階段路になり、進む先の530m峰の上に何か建物があるのが見えてきた。こんな場所に何が・・・と率直に思えた。
530m峰の上には東屋があった。地形図をよく見ると建物マークが記されており、それがこれを指しているようだ。甘楽町側に散策路が設置してあることから、東屋も甘楽町の設置で間違いなく、ここからの下山は甘楽町側へは容易なようであった。山座同定の写真まで設置してあり、相応にインフラした園地のようであった。ただし、散策路はだいぶ崩壊が進んできている。利用者も少なく観光課も管理しなくなっているようであった。
東に降りてゆく。450m付近には岩場があり、進みたい北側は8mほど切れ落ちていた。西側を巻いて尾根を繋げる。すると390m地点に峠が現れ、ここは西側の甘楽町側から林道幅が登ってきていた。おそらくは地形図の破線路と繋がっているのだろう。峠が見えたので一安心と東の吉井町側を見るが、道形は良く判らなかった。ここを訪れてよかったことは、ここに大きな山の神の石碑が置かれ、崩壊しているが4つの祠が並んでいるのが見られたことであった。大事な峠道で、東の大判地と西の上鳥屋を結ぶ道が頻繁に利用されていたという事だろう。驚いたことに山の神の石碑の裏を読むと、南牧村の人が寄贈したと書いてある。ここに関わる人なんだろうが、ここで南牧村の文字を見るとは思わなかった。
山の神の場所から東の谷を降りてゆく。その南に尾根が一本あり、もしかしたら尾根上の方が歩き易かったのかもしれない。谷の中を降りてゆくと石垣が見えだし、植林地か畑があった様子が見えてくる。水が無い谷なので、ここに住居は建てられなかっただろうと想像できる。見えるほとんどが美的な石組で、しっかりとエッジが立っていた。下に71号線が見えだすと、道形が現れ南に進んで行った。出た場所はアンテナ塔の立つ場所であった。
北に降りて行き東谷川ダムは、湖周囲の散策路に入り桜を楽しむ。ここは釣り客が多く、この場所にして10名ほどが釣り糸を垂れていた。最近の釣りなので、釣り糸を投げていたと言うの正解かもしれない。桜がちょうど見ごろで、新型コロナさえ脳裏から離れれば、とても麗らかな春を感じられる時間であった。採石場跡まで戻ると、その採石場跡の敷地には6台の車が停まっていた。どこかの山岳会が小梨峠へと上がっているようだった。
振り返る。里山の面白さを感じさせられる場所で、石仏や石塔や石祠や、少々の危険個所が在ったり峠が在ったり、バラエティーに富んでいて歩いて楽しい場所であった。ヤシオツツジも見ごろで、意外と長い区間楽しむこともできた。