黒鼻山 1800.2m
2010.10.2(土)
晴れ(上部ガス) 単独 小谷村月岡地区(571表高点)付近からピストン 行動時間:8H23M
@林道入口5:37→(11M)→A車止めのある分岐5:48→(27M)→B四辻6:15→(24M)→C真木地区6:39→(23M)→D歩道終点の沢7:02→(44M)→E1242高点7:46→(146M)→F黒鼻山10:12〜46→(186M)→G歩道終点地(沢)12:52→(12M)→H真木地区中心部通過13:04→(33M)→I四辻帰り13:37→(18M)→J車止め分岐帰り13:55→(5M)→K林道入口14:00
@真木地区へ行く林道入口分岐(南から北側を見ている) | @入口に設置してある「共働学舎」のポスト。 | A林道最初の分岐点。車止めのある右側へ進む。 | A車止めの脇に標識あり。「トホ90分」。 |
歩道脇にある石仏(馬頭観音?)杉の植樹帯の中。 | 休憩舎。手前に水場あり(水は細い)。 | B四辻(峠)。四方に向け道標が行き先を示す。 | B四辻から北に進むと「黒川城址」がある様子。 |
最初の橋。無名沢? | 二つ目の峠。 | 横根沢に向けて深く下って行く。 | 二つ目の橋となる横根沢。雰囲気の良い場所。 |
「真道」この標柱が現れたら、真木地区も近い。 | C真木地区入口の石仏。山の斜面2mほどの位置。 | Cもう一つ、かなり古いものも足元にある。 | 真木集落の中心地、「共働学舎」の使う茅葺民家。 |
茅葺の家にしては、驚くほど強固に出来ている。合掌集落とは別の美しさ。 | 今では珍しい百葉箱があったり。 | ソバを干している風景。 | 田んぼの稲は、下界平地のようには実っていなかった。手植えなのだろう。 |
真木から見る後立山。絶景であり、息を飲む美しさ。 | 村落内の歩道は何処も管理が行き届いている。 | D途中の分岐を左に進むと標高1010m付近で沢の中に入り、道は無くなる。 | 1080m付近。笹薮を泳いでゆく。 |
1190m付近に残る、林業作業の痕。 | E1242高点。東側を見ている。 | E1242高点のコンクリート標柱。 | 1430m付近。この辺りから、急峻斜面になってくる。 |
1440m付近。獣道らしき踏み跡も・・・。麓側を撮影。 | 痩せ尾根も混じる。 | 痩せた尾根上には道形のある場所も・・・。 | 1510m付近。目立つ大岩。下が休憩適地。 |
1660m付近。相変わらずのササ漕ぎ。 | 1700m付近。ここで初めて視界が開ける。第一展望所的な場所。青空が覗くが、ガスが巻き始めてきた。 | 1740m付近で、再び樹林が切れる。右(南)側がガレ斜面で注意。写真正面辺りを登る。 | 山頂直下。二重山稜もしくは棚形状になっており、山頂は東寄りにあり、南北に長い。 |
F黒鼻山山頂から北。 | F黒鼻山山頂から南。 | F珍しく絶縁テープを巻く。経路マーキング設置一切なし。 | F山頂の三角点があると思われる場所。蔦やネマガリが蔓延り、掘り返せる状態に無い。 |
下降途中1610m付近。 | 1510m付近の大岩の場所。 | 1242高点付近は、日差しが入ると気持ちがいい場所。 | 沢に降りるのだが、ナメ岩が南側に並び、滑るので注意。 |
G歩道終点の様子。歩道に乗って真木集落へ戻ってゆく。 | Hソバと民家。後ろは栂池辺りか・・・。 | H真木地区から見る黒鼻山。壁のようにそそり立つ。 | H共働学舎の民家と黒鼻山。 |
山道の様子。よく歩かれたしっかりとした道。 | 横根沢を渡って戻ってゆく。 | 崩落地の九十九折。パンザマストで土留めがされている。 | I四辻帰り。 |
J林道分岐点まで戻る。 | K駐車余地の様子。 |
土曜日(2日)の夕刻より、戸隠牧場に於いて大きな宴が催される連絡を受けた。気の知れた山仲間の集いでもあり、参加の意向を告げる。集う本隊は戸隠西岳を目指す計画で、10名ほどのパーティー行動だった。ここにもお誘いを頂いたが、危険箇所の連続する場所に対し、少し大きな編隊となっている感じ。こちらは丁重にご辞退申し上げた。
さて行くエリアは決まった。秋に入っての藪山シーズン。ちょっとがっつり漕ぎたかったり・・・。地図を眺めながら面白そうな場所を探す。「柳原岳」、「合ノ峰」などが目に入るが、柳原岳は乙見山峠から一度狙って、体調不良により松尾山までで断念している場所。また同じではつまらないので、ニグロ川沿いの林道を詰めてアプローチしようと思っているが、林道から逸れての藪漕ぎ距離が短く、漕ぎたい欲求に少し外れてしまう。次に合ノ峰。ここはどうしても木曾殿アブキからの1978年の国体時に開作した道を拾いながら漕いでみたい。32年と言う歳月は、現地を完全に自然に戻しているだろう。それでも所々は残っているはず。しかしここは、裾花川の氾濫により吊橋が流されてしまっている様子。行くに際し、前段階の調査が必要であった。さらには、今年の7月8日に大きな土石流があったようで、現在は大々的に入渓が禁止されている。そして唯一の連絡道路は17時から翌朝8時まで封鎖。行動できるのはこの時間を外した9時間。これだと時間との戦いで行って来なければならない。状況が変わるであろう来期に残しておく事にした。
そして次に目に留まったのが、「黒鼻山」。ルートのある東山から漕げば、2キロ弱の距離にあるそこは、奥裾花自然園の開園時間内に行って来れると予想できた。ただし尾根上は猛烈な密生藪。下手をすると全く進まない。ここで西側の地形に目が行く。地形図には真木と書かれた集落があり、破線が中腹まで上がっている。そこから顕著な尾根が黒鼻山に向かって突き上げており、西側でもあり、少しは植生が薄い予想も立てられた。ただし、標高1450mから上は、ゲジゲジマークを含んだ等高線の密な地形。ネット上では全く情報が転がって居ない中、パイオニア的にこちらから狙ってみる事にした。
出掛けに真木の集落を調べると、既に廃村になって長いらしい。そしてここは、現在においても車ではアプローチできない集落。秘境の村とも言える場所で、魅惑の場所にも思えた。人の居なくなった廃村・・・お化け屋敷のような場所なのだろうか。行くに際し、そんな事を思っていたら、「共働学舎」と言う団体が、古民家を利用して暮らしている事を知った。そこにはどんな暮らしがあるのか、年老いて腰の曲がったような方が居るのだろう。そんな事を思いながら、ザックには急峻箇所用に30mのザイルを放り込む。
1:15家を出る。星は無くどんよりと淀んだ空。晴れ予報であったのだが、急変か。数分後フロントガラスを雨粒が叩き、上州から信州への峠越え付近からは土砂降りとなった。こうなると、日が上がっても濡れ鼠。やや前途多難に思える出発となった。それでも信州を北に進んで行くと路面上は乾いている。どうやら上州の山間部だけが降ったようであった。三才山トンネルに潜り、松本に抜けて明科、池田と経由して大町に入って行く。秋の交通安全週間だからだろうか、ここに至るまでに赤色灯を回転させたパトロール車両3台とすれ違う。夜勤ご苦労様と言いたいほど。「白馬駅周辺では混雑が予想されます」なんて看板も見える。この週末、何かイベントでもあるのであろうか。小谷村に入り注意しながら進んで行くと、南小谷駅の僅か手前に東側に入って行く踏切がある。深夜だと判り辛いが、ここが唯一線路東側の車道への連絡通路となる。
線路東側の緩やかな傾斜を登って行くと、先ほどの分岐から200mほど進んだ先左側に廃校になった小谷南小学校がある。さらにここから400mほど進むと、鋭角に左に入っている道があり、その場所には「全面入山禁止」の白い立て看板がある。ここが真木地区へ続く道への入口となる。その真木地区の共働学舎のポストなのだろうか、朽ちた箱が設置してあり、これが唯一「真木」を示す物であった。歩きでしか行けないと思っていたが、舗装路が続くので、入って行ってみる事にした。九十九折の道を1回2回とターンしながら行くと、すぐにダート林道に変わる。そして350mほど進んだ先で道が分岐している。道標は見当たらず、右への道には車止めがある。車の進める左側の道に入ってみる。最初こそいいが、150mほど進んだ先で草ぼうぼうになり、恐々バックで戻る。
さて困った。真木へはどちらの道へ・・・。懐中電灯を翳しながら分岐の車止めの方に近づいてゆくと、山手側斜面に彫刻仕上げの「真木」の文字と茅葺民家を模ったプレートが置いてあった。正解進路は右のようであった。ただし、ここまで車が入れたものの、適当な駐車余地が無い。あるにはあるのだが、ホイールローダーが置いてあったり、作業関係者の土地のようでかなり勇気が要る。のんびりと安心して登ってくる為に共働学舎のポストのある分岐箇所まで戻る。戻る途中でトラックとすれ違う。向こうも下りてきたヘッドライトに驚いただろうが、こっちもビックリ、何処に行くのか・・・。時計は4時半だった。分岐箇所の西側には車が15台ほど停められそうな広見があり、ちょうど良い駐車余地となる。少し仮眠をと、後に移動し横になる。すると、1台の赤い車が、また林道に入って行った。どういう事か・・・頭を悩ませながら目を閉じていた。
夜が白み始め、出発の準備をする。今日は珍しく長靴歩きとした。その昔、藪山に入る場合はいつも長靴であった。今日も里山のような場所を行く、思い出したように長靴を乗せてきたのだった。国道148号の流れの音を背にしながら林道を歩き上げてゆく。最初に左側に廃民家があり、その先右側にすれ違ったトラックが止まっていた。なんと、こんな寂しい場所に住んでいる人が居たのだった。それが判り少しホッとした。ダートの道を進むと、前の方に先ほどの赤い乗用車が停まっている。その場所は駐車余地にいいだろうと思った場所で、この方が停めたと言う事は、私がここに停めないで良かったのかもしれない。信州ナンバーの方であり、地元の人という解釈も出来るのだった。でもこんな場所に停める人とは・・・真木側へ行く人しか思いつかず、共働学舎の関係者かもとも思えた。
車止めのポールに渡してあるのはチェーンとダイヤル鍵。外そうと思えば外せてしまうが、中に入って行けるのは、軽トラかジムニーなどくらいだろう。何せ最初の鋭角ターンが狭くキツイ。杉の植林地の中に切られた道は、昔ながらの山道の雰囲気が強くする。流れの音が右側から聞こえ、進んで行く道の山手側には、時折NTT東日本の電話線の中継ポールが立っている。これが村との連絡の為の大事なライフライン。そして車止めから20分くらい歩いた場所に、馬頭観音様のような石仏が見られた。少し苔の付いたこのようなものを見ると、少しだけ往時の様子が伺えたりもする。さらに足を進めると、黄色いコップが置かれた水場があり、その先に三角のトタン屋根の小屋がある。中を覗くとベンチがあり、それは休憩舎であった。「熊出没注意」の表示がピリッとした空気感を与えている。なんだろう、この嬉しさと郷愁を感じる部分。レトロな休憩舎にニンマリ。砂の上についた足跡からは、動物も雨宿りに利用しているようであった。
休憩舎の先で、峠となる。良く見ると分岐道標があり、四方に向けて各名称が書かれていた。そしてこの場所を「四辻」と言うらしく、薄れかかった墨で書かれた文字が読み取れる。そしてここから北に進んだ高みには、「黒川城」と言う山城が有ったようで、道標がそれを記していた。峠の東側にはユーターン余地があり、車が何とか入れるのはこの辺りまでのようであった。昔の旅人になった気分で峠から降りて行く。すると歩道から外れた斜面で鈴の音がしている。あの赤い車の持ち主なのか・・・きのこでも採っている様に思えた。すると前の方から、若い男性が背負子を担いで登ってきた。こんな所に何故に・・・よく判らぬまま快活に挨拶をしてすれ違う。背負子には何も付いていない。山の帰りとも思えないし、消去法で行くと真木の集落の住人と言う事になる。足を見ると、かなり逞しい足をしている。道産子のようにがっちりとしており、その足運びは速い。山慣れしていると言うより、この道に慣れている歩調であるように見えていた。
下りきった場所が最初の川を跨ぐ場所。対岸に進み、再び登り上げてゆく。道の上にはトライアルバイクの細かいタイヤパターンが残る。既に得ている情報から、「共働学舎」代表の、宮島さんのバイクが通過した痕で間違いない。登り上げて行くと、二つ目の狭い峠となる。ここにも木の標識があるのだが、不鮮明で読み取れず。先ほどの四辻もそうだが、この峠も狭い峠で、その狭さが山道を意識させてくれ歩いていて気持ちいい。この先、崩落地の中に切られた九十九折を下って行く。パンザマストを利用した土留めがされ、応急策を施したような道であった。下りきると、そこには雨除けが被せられたカブが置いてあった。そろそろ集落が近いのか・・・。
二つ目の橋が、地形図に記されている横根沢を渡る橋となる。この周辺も広々として雰囲気がいい。鉄板で補強された木橋を渡り、再び緩い九十九折を行く。すると途中に「真道」と書かれた標柱が現れた。真木への道だから真道なのだろう。この僅か先で前方に視界が広がる。黄色い田んぼが見え、遠く茅葺の民家も見える。とうとう真木の集落に到着したようだ。この景色を見て、なにかピンピンと感じるものがある。不便な場所である事に違いないが、ここには間違いなく幸せが有る。そして村の入口と言えよう場所に、○○大師と言えよう石仏と、表面が風雪に削られた観音様のような石仏がある。もう最高と思えるほどに雰囲気十分。振り返ると後立山が屏風のように聳えている。“うわっ、凄い”心の中でつぶやく。浮き立つように白馬岳の山並みが見え、それこそ10年分くらいの埃が洗われたほどに清々しい気分になった。「この村に来て良かった」。自分の中に眠っていたものを目覚めさせてくれたような場所であった。。
村落内の道はしっかりと雑草が刈られ、人の存在を強く感じる。そして広場的場所には、ミニサッカーのゴールポストなども設置され、若い方も居る事が伺える。右(南)の畑の方には、葱などを含め沢山の野菜も見えている。今ここまで歩いてきた距離を振り返り、見えている景色に、ここで「自給自足」がされている事が見とれる。進んで行くと、大きな太い柱を使った茅葺屋根の民家が見える。その前には綺麗に稲が乾され、嬉しいほどの田舎の風景。ふとその右を見ると、点々と人の姿が見える。草取りをしているのは間違いなく、寄って行くと15名ほど数えられた。驚いたのは、よく見ると若い女性が8名ほど混ざっている。中高生のようにも見える彼女らが、何故にここに・・・。歩きながら頭の中が混乱していた。コンビニも水洗トイレも無いようなこの場所、勝手ながら若い女性が場違いに見えてしまった。声を掛けると、静かに朝の挨拶をしてくれた。それから、中にはハンディーを持った方も居られ、この方々からもしっかりと挨拶を貰う。時計はまだ7時前。夜明けと共に働き出すのがここの姿勢なのだろう。邪魔をせぬように先に進む。予想では住んでいて3名ほどだと思っていたのだが、意外なほどの大人数の存在に驚くのだった。
真木の集落を奥の方へ進んで行くと、住まいしていない崩壊しつつある茅葺民家がある。薄暗く怖いような感じがするが、そう感じてしまうと、先ほどの住まわれている方々に失礼にも思えた。中にはまだ使える食器や家財道具が見える。リフォームすれば、まだまだ生き返りそうな家ばかりであった。北側の山の麓には、ヤギや鶏の姿もある。私にとっての理想郷にも思え、桃源郷にさえも思える場所であった。それにしても村落内の管理がいい。これほどに下草が刈られているのは、平地でもお金をつぎ込んだ公園くらいだろう。ここに居る人たちの団結力からだろうか。一方田んぼを見ると、土地が肥沃な為か稲の育ちがいまいち。もしかしたら私の見る目がなく、手植えだからそのように見えたのかも。そしてその脇の畑では、蕎麦が刈り取られ干されている状態であった。近づいて蕎麦の実を見ると、プックリと膨れたいい実であった。刈り払われた村道を、東に進んで行く。すると「巻き寿司池」と書かれた小さな池もある。これを左に見ながらどんどんと詰めて行く。すると途中で道が分岐する。私は左に進んでしまったのだが、右へ進むのが地形図の破線に書かれるルートのようであった。現地ではどちらの選択が正しいのかが判らず、当てずっぽうに進んで行く。この先で、取水槽が設けられた場所がある。ここを過ぎると沢に降りる恰好となり、ここで道が終わっていた。もしかしたら沢の中に続く道なのかもしれないが、よく判らなかった。
狙う尾根は南側にあり、進路としてはこれでよかった。斜面の植生はあまり濃くないササ原。広葉樹が適度に生え、完全なる里山の雰囲気。ササを掴みながらガツガツと登りだす。30mほど這い上がって尾根に乗った格好になった。標高1030mほど、さほど濃くない笹原を泳ぐように分けてゆく。時折、炭焼きがされたと思しき穴も点在。里山での往時の様子が伺える。気になるのは熊の存在だが、しばらくは鈴を鳴らさずに生息調査。木々を見ても大木に爪痕は無い。やや広い斜面が終わり、標高1070m付近から幅が狭まった尾根形状を成してくる。顔をササに擦られながら進むのだが、既に痒くなっているような状態。何か対策をせねばと思うのだが・・・ついいつも忘れてしまい現地で・・・。途中、1190m付近には、木に巻かれたワイヤーも見られる。廃村から40年経過している。間違いなくそれ以前の残置物である。単調なササ漕ぎの尾根。腕を左右に広げつつ、膝をグッと入れながら硬いササを分けて行く。
1242高点付近は、弧を描くような尾根筋で明るい場所。その1242高点の座標を取っているだろう場所には、古いコンクリート標柱が埋められていた。さあこの先から、ちょっとづついやらしい道となる。すぐ先から痩せ尾根の場所も出てきて、右に岩壁を見ながら行く所も出てくる。だんだんと危険地帯に入ってきているのが判り、この先の等高線の密な斜面が気にかかる。ただし、尾根が痩せると、獣道なのか、そこにしっかりとした道形も見えてくる。先ほどのワイヤーが有った事から、人の気配はしたものの、道形の主の特定には至らなかった。相変わらず朝陽は当たらない。西斜面なので当然なのだが、途中で北側を見ると、東山なのか、赤く上の方が日を浴びているのが見えた。早く日差しに当りたい。そんな心境で暗い樹林帯の尾根を進んで行く。
1450mから地形図通りの急登が始まる。背中にはザイルがあるので安心して登って行くが、もし携行していなかったら、下りをどうしようかと思う微妙な危険斜面も出てきていた。そして1510m付近。大岩の上にミズナラの大木が生えている。ここがこのルートで一番の目だったポイントとなる。岩の下が2畳ほどの下草の薄い休憩適地だった。この先は注意が必要。マーキングをつけながら進んだ方が無難。判らず進むのだが、地形図に表現されない微細尾根が走っている。私は先ほどの大岩から少し南に進路をとってから痩せ尾根に乗ったのだが、本来なら真っ直ぐ尾根をトレースしようとは思っていたのだが、地形に誘われた感じとなった。
もう山頂は僅かだと判っているのに、なかなか着かしてもらえなかった。相変わらずのササ漕ぎ、これでもかと連続する。でもこれが楽しい。自然の中で遊んでいる感じが全身で感じられるのだった。この尾根に入り、最初の展望場と言える場所が1700m付近にある。振り返ると後立山の峰々が並ぶ。そして1740m付近で草つきのガレ場となる。ゲジゲジマークの辺りで、南を見ると深く落ち込んでいる。右側に注意しながらやや北寄りに登ろうとするが、棘のある低木が多く、それらが行くてを阻む。しょうがないのでやや開けた南側を滑り落ちないよう注意しながら這い上がって行く。そしてここがこの尾根2番目の展望場だった。だんだんと周囲はガスに覆われ、ササはびっしょりと濡れている。判っていれば先ほどの草地で雨具を着込んだのだが、周辺にそれらが出来るような地形は無く、相変わらずの急峻の中に居た。上に行けばもう少し道形も残っているのではと思っていたが、全く逆。どんどんと密生になり、山頂直下が激薮と言っていいほどに進度が落ちた。そして山頂部の西端に乗り上げるのだが、この山頂部は中央部に掘れた場所があり、二重山稜的な形状をしていた。最後は3mほどの駆け上がり、南北に細く長い山頂に立つ。
黒鼻山山頂。まあほとんど訪れる人は居ないのだろう、標識類は皆無。すぐに三角点探しに入る。しかしネマガリが蔓延り、その枯れ葉が堆積している。さらに蔦類も行動の邪魔をして僅かに進むにも難儀する。つま先や踵を駆使して掘り返すが、それを阻止しようとするネマガリの根。それでも折角ここまで来たのだからと必死で掘るのだが、結局出てこなかった。現状からすると、スコップや鉈などを持ち上げないと掘り出せないように思えた。残念だが諦める。三角点も標識も見えないことで、久しぶりにマーキングを残す事にした。ダケカンバに絶縁テープを巻き、山名を記す。次にこれを見るのは誰だろうか。間違いなく好事家であろうが、行動は3名以内がいいだろう。山頂に休憩適地は無く、ササの中に埋もれ立って居なければならないような最高所であった。ササの高さも5尺ほどあり、それにより周囲も見えない。ましてやガスに覆われている状態で、撮りたかった戸隠側の写真も撮れず。でもこれが藪山。とっても満足なのであった。十分休憩をとったところで下山となる。
下りはササが下を向いているのでだいぶ楽、ただし滑るような場所もあるので、両手で掴みながら制動をかけてゆく。慎重に降りて行かないと、急峻の中にある微細尾根なので、何処を伝ってきたかが判らなくなるような場所。安心のためには往路にマーキング付けて上がった方が無難に思えた。ゆっくりと周囲を見据えながら降りて行く。1740m付近で視界が開け展望が出るので、ルート上に居る事が確認出来た。しかし、この先の下降がなんとも難しい。僅かにずれてもそこが往路上なのか否かも判らない。地形図を見ながら、そして斜面上に残る、蹴り込んだ踏み痕を探すように降りて行く。もしこの状態が長く続いたら、精神的に疲れる場所に思えた。ここでの往路のマーキングの大事さを強く感じるのであった。ただし、私のこの辺りの往路は、だいぶ南を巻くように伝ってきている。復路は主尾根に忠実に沿って降りて行くことにした。ここでは往路の尾根が左に見えれば安心なのだが、笹や樹木に覆われそれが見えないことがどんどんと不安を誘う。そして下に2mほどの段差が出てきて見覚えのある地形となる。この大岩の上に出た時は、本当にホッとした。しかしホッとしたのもつかの間、ここから先の下降で、北側の尾根に乗ってしまった。だいぶ下ってから様子がおかしいのでコンパスを当てると進行方向が違う事に気づく。幸いにも緩斜面でトラバースが可能。南にずれて主尾根に乗る。ドキドキもあるのだが、こんなミスが面白かったりする。ルートファインディングを楽しむとは、この部分。だから藪山にはルート上にマーキングなどがあってはならないのだった。
1400m以降の緩斜面は、道形を拾うように闊歩して行く。先ほどまでがウソのように進度が速い。1242高点を過ぎて、1210mの肩の場所で要注意。西南西に進んできている尾根が西北西と変わるのだが、降りてきたまま進みたくなるので西南西に進みたくなる。ここも往路にマーキングが必要になるだろう。まんまと嵌ってしまって途中で気づき戻る。あとは、広い斜面を何処でも適当に降りてゆけば良いだけであった。それにしても、熊の存在は皆無。ブナ林の辺りも気にして幹肌を見たが、目立つ爪痕は無い。この辺りは生息域では無いのか。大岩などがあり、良さそうな穴もちらほらとは見えたのだが・・・。右(北)から沢の音がしだし、導かれるように寄って行く。沢の中には黒い取水パイプが流されている。そして沢に降りる最後で、ズルッっとやる。ナメ岩の上に枯葉が乗り、滑りやすい場所が続いていた。いつもそうだが、最後の最後まで気を抜いてはいけないことを体感。ドロドロになった尻に、我ながら情け無い思い。そしてパンツにまで沁み込む水の冷たさ・・・。
沢に降り立ち、30mほど下ると右側に村内からの道が見えてきた。顔を洗い汗を拭い、歩道に乗って下って行く。オヤッと思ったのだが、路肩の溝が新たに切られていた。往路には間違いなくなかった。雨用の対策なのだろうが、常にこのように管理しているのだろう。細かい気配りがあり、この村の美しさはこの心掛けからのようであった。戻ってゆくと、共働学舎の建物では布団が干され、洗濯物も恥ずかしげも無く干されていた。見てはいけないようなものも含まれているのだが、それもこれも人間らしい生き方。その洗濯の下では、携帯電話で話している女の子の姿が・・・“えっ、ここ携帯が通じるの”と、すぐさま自分のを取り出す。確かにアンテナが立っている。でもホッとした。携帯を片手に話をしている女の子の姿に、やはり現代っ子を感じるのだった。13時を回った時間だったが、女の子達はのんびりと寛いでいた。当初はここでの生活を少々リサーチしようとも思っていたのだが、逆の立場になれば良く判る部分、休憩の邪魔をせぬよう村を後にする。ハッキリ言って、「暮らしてみたい」と強く思える場所で、ある意味感動の場所でもあった。村の入口の観音様と○○大師様に挨拶をして降りて行く。道の上を見ると、私が歩いた他にこの村を誰も訪れては居ないようであった。横根沢を渡り、その先が辛い九十九折。太腿もピクピクさせながら登り上げてゆく。ここがある為にトライアルバイクでないと通過できないのだろう。オフロードバイクでも80cc以下なら通過可能かも・・・。でもでも、ここでのバイクの排気音は聞きたくない。外来者は徒歩限定で良いと思う。あとはマウンテンバイクの轍も残っていた。
峠に登り、下り込むと最初の橋。再び登り上げ四辻に到着。城址を見ようと往路は思っていたが、藪漕ぎと急登のクライミングに疲労困憊。迷う事無く月岡側に下って行く。休憩舎脇の細い水場で喉を潤し、大股で闊歩して降りて行く。太く赤い幹の杉が林立し、それらが高く真っ直ぐ立っている。その中に馬頭観音らしき石仏がある。旅の無事を目礼。よく見ると往路より微笑んでいるように見えた。この石仏は、何千、何万人の往来を見てきたのだろうか・・・。車止めに到着すると、まだそこには赤い乗用車が停まっていた。林道を降りて行き、一軒の民家を見ると、まだそこにもトラックがある。すれ違ったのは、夜勤の配送終わりの時だった様だ。駐車余地まで戻り、山行を終える。
今回の計画において、真木集落通過というのは、私にとってとても有益な事だった。こんな集落があるのかと驚いたのは当然だが、廃村になって40年以上経過し、そこで現在も生活している人が居るということが凄いと思う。田舎暮らしに憧れがある私の感覚とは違うのであろうが、文明の利器が無い中でも暮らせるバイタリティーを感じたり、逆にスピード社会に追われないで過ごせるゆったりとした部分を羨ましく思ったり・・・。ただ、南小谷駅から1.5時間ほど。それが遠いと言えば遠いが、文明と全く疎遠な場所では無いのは確か。行き来がそれなりに出来るという部分も、暮らせている事に繋がっているのだろう。後から検索を掛けると、途中で行き合った若者は、共働学舎の方であった。麓に食料か資材を買出しに行ったのだろう。足で行き、また登ってくる。それも背負子に乗せられる範囲内。当然そこで工夫して持ってくるだろうし、重さだって考えるだろう。現社会の受身な部分に対し、少し不便な事は、頭を使い体も使い、やはりその方が人間らしいと思えてしまう。今回は記憶に残る素晴らしくいい旅であった